久しぶりにブログ更新します。
最近はもっぱらSNSに書き込み主体でしたが、ブログがコアな情報発信のツールへと立場を移行したのを良しと捉え、こちらから定期的に表層的ではない部分にスポットを当てた内容をと思う次第です。
さて、2016年もいつの間にか半分過ぎました。
日本の舞台業界の場合、この頃になると忙しなく、もう来年の企画を練って具体的な構想に取り掛かります。
昨年の我々もこの頃から「謡」という「Reason to …」の元になる作品に取り掛かったりしてました。
1年前から創作の準備をするわけですが、実際は同じタイミングでその年に行う公演のリハーサルをしている訳で。
その作品の結末を見ずにして次の構想をしてるという、絵に描いた餅を見ながらどう食べるか考えてる状態になります。
さて、「妖怪」をテーマに作品を作っていると最近は頭の中がそれだけになってきます。
例えば、「妖怪」英語に翻訳するとどうなるのでしょう。
「monstar(モンスター)」でしょうか。
勝手な語感から「怪物」的な意味合いを受け取ってしまい印象と響きに差を感じます。
「妖怪」は朧げながらもっとある種の無能感が付随していて、自然現象の別名的な要素や人間の感受した反応の別名のようなニュアンスを含んでる気がします。
即ち人間が「感受」した得体の知れないものを「妖怪」と名付けたのではないかというのが見解です。
では、現代において「妖怪」はいるのでしょうか。
それは人間である私たちが自身が抱える問いになってきたように思えます。
「私たちは妖怪を感じられてるでしょうか。」
話が飛躍しますが、そういった意味で確かにポケモンGOは日本人の気質にも馴染み深い感覚を含んだツールなのかもしれません。
街中の隅に何かいるという感覚。これ自体は素晴らしいです。が、今まではそれを五感や創造力で自発的に行ってた。機械の力を借りなくては「見えない何か」を見れなくなったのは皮肉な話しだと思います。
「ポケットモンスター」確かにその通りです。
五感の次に鎮座する六感を駆使して生活を行ってきた人間にとって、その感覚を奪いかねない機械への依存過多や、信用過多は、様々な弊害を生み出しかねない気がします。そんなツールは「モンスター」と呼ぶに相応しいですね。
あくまで道具は使いようです。しかし、使うのは人間の感性です。感性を曇らせるツールを使う感性とのせめぎ合いは今現代に起こっているジレンマの一つかもしれません。
8月10日いよいよOrganWorksの新作公演に近づいてきました。
私ももう一度、自身の表現の先に立ち会い、自由な気持ちと感性を持って現場に足を運びたいです。
そして早く「妖怪」と呼ばれるユルユルながら他者を引き上げられる存在へと昇華したいものです。
平原慎太郎
半年以上ぶりにここをみたら更新されてたので、嬉しくてコメント残しております。ちょうど、暑さのせいか何なのか、色んなものに対する「欲」の薄れと、これに伴う得体の知れない危機感をかんじていたので、この記事にも何か通じるものを感じました。「感覚」が鈍ってるのかもしれません。ハッとする言葉ありがとうございました:)
ruuさん
「欲」もシンプルな方が良い時とその事が原動力になる時とってありますもんね。
バランスじゃーですよね。分かります。